甘党プロデュース #8

とある 鰈 ℃ scope

 

  ℃ scope 」

1 有眼側から美しいものを、

      無眼側からその裏側を鑑賞する装置

2 白と黒を併せ持つこと

3 角度を変えたり光を当てると

      違う景色が見えること

 

***

 

うこそお客様。

お会いできて光栄です。

そして、あなたは実にラッキーな人だ。

我々、そろそろ場所を変えようと

思っていたところなんですよ。

 

さぁどうぞ、ごゆっくり  ・・・え?

商品がないじゃないかって? 

いやだな、とんでもない。

 

当店は、商品の取り置きはございません。

お客様の望むものを

何でもご用意いたします。

 

さあ、何が欲しいですか?

有名パティシエのスイーツ? 

びやかなドレス限定品の時計?

街中の誰もが振り返る高級車? 

名誉?財産?それとも、愛?

 

おや? それがあなたのお望みですか?

いえいえ、とんでもない。

 

とても素晴らしい選択です。

今の時代そのモノの価値は

他の人には解らない

 

***

 

欲しいものなら何でも見つかる、移動式百貨店「」。開業当時人気だった商品といえば、「一生働かなくても暮らしていけるほどの財産」「世界中の誰もが羨む地位や名声」「恋敵に奪われた恋人の愛情」などなど。(もし身近で突然人生が変わった方をご存知でしたら、この店のお客様かもしれません。

しかし近年、平和で豊かでモノがあふれる退屈な時代の到来に、人々が価値を置くものは大きく変わりました。加えて「このご時世、うまい話には裏がある」と疑う人が増えたこともあり、人々の注文にも変化が生まれました。お客の望みを叶えることが生き甲斐のオーナー・バーグドーフ、そして人の望みを聞くのをただ楽しんでいる、従業員・ロードとテイラー。3人は「欲しいモノ」を探しているお客様に出会うため、今宵もまた、とある街にたどり着きます






「隣の芝生」

 

――― 伊藤雄一は、肩を落とした

 

休日の予定はいつも雨、行列に並べば自分の前で品切れ、何もない場所で転ぶことなんてしょっちゅうで、始発電車の椅子にも座れたことがないとにかくツイていない人生なのだ。卒業後、なんとか飲料メーカーEIGHTORYの企画部に入社したが、要領が悪いために上司にはいつも怒られ、面白い話をしようとすれば同僚にオチを言われ、意中の女性にもまるで相手にされず、伊藤の「ツイていない人生」は年々拍車がかかる一方だった。また、社内には、伊藤とはまるで真逆のやたらと「ツイている男」福里真二がいた。福里は頭、要領、愛想も良いために上司や同僚からの信頼も厚く、自身の企画案もよく通り、いつもオイシイところを持っていく男だった。自分に対しても分け隔てなく接する福里に対して、伊藤いつも少しだけ、息苦しさを感じていた。

 

ある日、伊藤が翌日に控えた「看板商品の新シリーズCM案企画会議」の準備で残業をしていると、福里から「飲みに行かないか」と誘いを受けた。伊藤がそれを断ると、福里は同僚の澤本嘉三と共に早々に帰っていった。2人を見送った伊藤は企画書作成に集中しようとするが、いいアイディアが降りてこず、時間だけがするすると流れていく。

 

突然フロアの明かりが消え、パソコンのデスクトップの明かりだけが虚しく伊藤の顔を照らしている。

時計を見ると、最終退社時間。伊藤はため息をついて立ち上がり、とぼとぼと会社を出た。

 

頭の中では、帰ってから企画書作成に追われている自分の姿と、明日の会議で福里の案が通っている姿が交互に浮かび、自然と足取りが重くなる。

そのとき、ふっと、どこか懐かしさを感じるいい匂いが、伊藤の鼻をかすめた。顔を上げると、『満喜子』と書かれた深緑の暖簾がある夕食をまともにとっていなかった伊藤は急に空腹を思い出し、「一杯だけ」と決め、暖簾をくぐった。

 

温かい明かりと色んな食材の匂いに包まれた、カウンター席のみの小さな店内。優しく微笑む女将に迎えられ、カウンターに座る。少し不慣れな様子の接客。どうやら最近開店したばかりのようだ。普段あまり外で飲み歩かない伊藤も、店と女将の雰囲気に心がほだされ、気づけば酒が進んでしまう。そして、口を開けると、ツイていない人生を送ってきた自分のこと、同僚に真逆の人生を送っている男がいること、今まで言葉に出さなかった弱音や愚痴がホロホロと溢れ出してきた。すっかり泥酔し眠ってしまったが、女将に起こされ飛び出すように店内を出ると、不思議なことに少し前向きな気持ちになっていた。

 

意気揚々と帰宅し、デスクに向かう伊藤。何度も書き直しながらも諦めず、ついに納得する企画書を作り上げることができた。

時計は5:00を指している。緊張感が解け、一気に眠気が襲ってきたため仮眠を取ろうと目を閉じた。視界が暗くなった体感時間は、ほんの数秒間だった、はず。次に目を覚ました伊藤は、時計が指す9:00の意味が理解できず少し呆然としたが、すぐに飛び起き、企画書を掴んで家をた。

 

会社に到着し、会議室の扉を開けると、まさに福里の企画案が採用されているときだった。

不穏な空気が流れる会議室。上司は、福里に企画を整えて明日再度見せるように指示を出すと、伊藤の顔も見ずに会議室から出て行ってしまった。同期や後輩も気まずそうに出ていく中、福里は伊藤に明るく声をかけ肩を叩いた。それは、伊藤の自分自身への怒り、やるせなさ、後悔、羞恥心を爆発させ、絶望に落とし込むには充分だった。福里の手を払い、一人になった伊藤は会議室に企画書を置いて会社から逃げ出してしまう。

やり場のない感情に心を押しつぶされながら、伊藤は街を彷徨う。

 

「ようこそ、お客様」

 

顔を上げると、奇妙で胡散臭そうな男1人と女2人が、丁寧に頭を下げている。伊藤は驚き逃げ出そうとしたが、引力のような力でを引き寄せられ、あっという間に彼らに囲まれてしまった。

「当店は、お客様がお望みのモノを何でもご用意いたします。

 さあ、あなたは何をお求めですか?

 

伊藤は何かの悪ふざけだろうと思い「お金」と答えてみた

「承知いたしました。」

 

奇妙な男が手を叩いたかと思うと、次の瞬間、女2人が伊藤に青いケースを差し出される。

戸惑いながらも中を覗くと、ケースには一杯に見たことのない額の大金が入っていた

 

「これはもう、あなたのものです。」

 

突然の出来事に興奮した伊藤は、微笑む男からケースを渡されると一目散にその場を立ち去った。しかし一人になり、「こんな上手い話があるわけないじゃないか。」と我にかえると来た道を急いで戻り、3人にケースを返した。機嫌を損ねた女2人に詰め寄られたが、後でもっと怖い思いをするよりはマシだった。

 

「では、あなたが本当に望むモノはなんですか?」

 

再び男から問いかけられ、伊藤の頭に、今まで送ってきた、ツイてない自分の人生の記憶が蘇る。

して、対照的に生きるあの同僚の顔が浮かんだとき、ふっと言葉を漏らした。

 

福里のような人生が欲しい。】

 

「はい、承知いたしました。」

男は青いケースを差し出した。

 

翌日から、伊藤の人生は一変する。

雨に降られることもなくなり、満員電車でも席に座れるようになり、道で拾った福引券で1等のハワイ旅行が当たったりした。始めは信じられなかったが、どうやら夢ではないようだ。自信をつけた伊藤は、会社内でも別人のように振る舞いが変わった。気になっていた後輩の尾形万由子話しかけたり、上司に自分の意見を伝えたり、業務邪魔が入ることなくスムーズにこなせるようになった。そして企画会議では、怪訝に思い始めた同僚たちには目も呉れず積極的に企画案を発言し、入社以来初めて(そもそも会議で発言すること自体初めてだったが)上司から肯定的な言葉をかけてもらえたのだった。

 

伊藤は、今まで味わったことのない高揚感を感じていた。就業後、福里や澤木から「飲みにいかないか」と誘われたが断り、社内に残って明日提出する企画書を作成し直すことにした。(きっと、今なら、これまでに思いつかなかったような案が浮かぶに違いない)と自信に満ち溢れ、パソコンに向かう伊藤。しかし、いくらキーボードを叩いても、何も思い浮かばない。いつもと同じ社内なのにやけに静かに感じる。響く時間の秒針が伊藤の心拍を急かしているようだった。

 

焦燥感に襲われ席を立ったそのとき、伊藤は以前会議室に置きっ放しにしたままの企画書の存在を思い出した。会議室に戻りそれを拾い上げ、急いで中に目を通す。しかし(あの日の自分が書いた企画書なんて認められるわけがない)と伊藤は企画書を投げ捨て、再びパソコンに向かい荒々しくキーボードを叩く

次の瞬間フロアが暗くなり、真っ白の画面が嘲笑うように伊藤の顔を照らしていた。

ひとりそっと息を吐く

すると、伊藤の頭上の蛍光灯が「カチカチ」と音を立て明るく光った。振り返ると、同僚の福里がいた。福里は、伊藤に缶コーヒーを投げると、フロアに響く明るい声で「調子はどうだ」と声をかけた。それは、馴れ馴れしくて、陽気で、自然で、誰にでも平等で、ずっと羨んでいた、いつもの福里だった。伊藤はコーヒーを一口飲み、自分のパソコン画面を福里に見せた。福里のからかいの言葉に、伊藤は自然と笑い返すことができた。

(今日は、もう帰ろう。)そう思ったとき、福里から「これなんだろう」と、先ほど投げ捨てた企画書を差し出された。伊藤は取り返して破り捨てようとしたが、福里はそれを制し、企画書の内容の斬新さや面白さを興奮しながら讃えた。昼間、上司や同僚から受けた言葉や視線とは違う、本当の自分自身に向けられたそれに、藤の胸に熱いものがこみ上げてきた。それから、2人は意見を交わしながら、企画を練り直した。伊藤は福里の頭の回転の速さや、指摘の的確さに改めて驚き、福里は伊藤の自分が考えてこなかった角度のアイディアに刺激を受けた。

時間を忘れて没頭し、ついに企画書が完成した瞬間、フロアが暗くなった。

思いが羅列され熱を帯びた画面が、2人の顔を見守るように照らしていた。

 

翌日の会議で、伊藤の「CM新シリーズ企画案」見事採用され、福里、澤木、尾形の4人がその担当を任されることになった。

伊藤は達成感に呆然としていると、いつもと変わらぬ馴れ馴れしさと自然さで「飲みにいかないか」と福里に誘われた。

「それなら、いい店がある伊藤は、パソコンを閉じて席を立った。

 

駅に着こうとしたとき、伊藤はふっと、不思議な3人組にもらった青いケースのことを思い出した。

(そういえば、あの後、どうしたんだっけ)

線をあげると、改札に後輩の尾形が立っていた。動揺して思わず足を止めると、福里に彼女への気持ちがバレてしまった。

福里から誘うように促され、照れながらも思い切って声をかけようと近づくと、それより先に突然現れた澤木が彼女の元に駆け寄り声をかけてしまった。

伊藤と福里に気づいた2人は気まずそうに目をそらしたが、福里がからかうとすぐに関係を認めた。

「澤木さんって、福里さんや伊藤さんみたいに派手じゃないですけど、いつもさり気なく気を配ってくれるんですよ」

尾形は愛おしそうに、隣の彼を見つめていた。

優しく微笑みながら2人を見送った

 

伊藤は、肩を落とした。 ―――

 




 

calling

 

――― 彼女の目に映る世界は、いつも光輝いていた。

 

EIGHTORY」の新商品、清涼飲料水CM現場。商品を持って可愛くポーズを決めるモデル事務所「Flora」の千世子。千世子は、数々の人気ファッション雑誌の表紙を飾る1020代女性から絶大の人気を誇る誰もが認めるトップモデルだったとあるアンケート調査では「あなたがなりたいスタイル」で5年連続1位の記録を更新中で、最近は今回のCM出演のように、仕事の幅も広がりつつある。今日も千世子は、周囲から賞賛の声と羨望の眼差しを浴びながら、求められるままに笑顔を振りまき、順調に仕事をこなしていく。

 

スタジオに「カット!」という声が響くと、スタッフが一斉に動き出し、千世子の元に人が駆け寄った。千世子の視界はいつも、自分に向けられた人々からの視線と何も見えなくなるほどのフラッシュで溢れていた。しかし、横にはいつも千世子の専属マネージャー居て、手早く身の回りを整え、スタッフからの要望や質問にテキパキと対応し今日はこの後するのか、次のスケジュールそっと耳打ちしてくれるのだった。千世子は、自社製品のCM企画担当のために現場に居合わせたEIGHTORYの澤木と尾形からサインを求められたが、反応する前にマネージャーが断ってくれた。それは、完璧で、恵まれていて、疑う余地のない、千世子がいつも見ている光景だった。撮影を終えた千世子は少し疲れを感じすぐに楽屋に戻た。

しばらくすると、スタジオに残りテキパキと仕事をこなすマネージャーに、1本の電話がかかってくる。

それ、「Flora」新人モデルのKUMIからだった。彼女は先日デビューするやいなや親近感と飾らない笑顔が魅力」と注目を集め、1020代の女性を中心に人気急上昇中のモデルだった。KUMIは、先輩である千世子のCM撮影風景を見学しに来たと言う。マネージャーは突然のKUMIからの連絡に驚き、彼女を探すために入口まで飛び出していった入れ違いで撮影スタジオに到着したKUMICM撮影の現場は初めてだったが、いつものファッション撮影とはまた違う雰囲気にKUMIの好奇心は刺激された。物怖じせず、スタッフにも気軽に声をかけてスタジオ内を見て回る。彼女の自然体な振る舞いに違和感を抱くスタッフはおらず、いつのまにかスタジオ内はKUMIのペースになっていた。千世子のマネージャーから一蹴され落ち込んでいた澤木たちも、気さくなKUMIに思わず再びサインを求めてしまう。彼女の神対応に、彼らの心は一気に掴まれた

 

その後、千世子とKUMIは同じ現場で顔を合わせることが増えた。どちらも笑顔が魅力的だが、カメラの前から離れると、2人は対照的だった。

鏡を見つめ、食べ物を節制し、次の仕事の確認をする千世子。スタッフと談笑し、好きなお菓子をつまみ、自由に振るまうKUMI千世子は、楽屋にこもる時間が長くなっていった。

2週間後、千世子がイメージガールを務めていた商品の新CMKUMIが起用されることとなった

 

初めてCMに出演するKUMIは、先輩の千世子にアドバイスを求めた。千世子は微笑んでKUMIを祝福し、自分が撮影のときに注意したことやスタッフから求められたことなどを丁寧に教えた。

 

現場スタッフもそんな2人を微笑ましく見守る中、千世子の専属マネージャーあこだけは千世子を心配そうに見つめていた。楽屋に戻っていく千子を追いかけたが足を止めてもらえず、閉められた扉を叩いても反応がない。最近の千世子の変化を気にかけてはいたが、彼女が相談をしてくれないこと、こちらを見てくれないことに、あこ自身も落ち込んでいた。デビューから今まで二人三脚で歩いてきた千世子とあこだったが、あこは千世子のことが分からなくなってきていた。

 

帰り道千世子から何か連絡がこないか、何度も携帯電話を確認するあこ。気付けばいつもとは違う道に入ってしまい、温かい明かりが漏れる深緑の暖簾と『満喜子』の文字が目に入ってきた。まだ1人の家に帰りたくなかったあこは、少しだけ寄っていくことにした。

 

店内に居たのは女店主のみだったが、店主は先ほどまで複数名居たであろう客達の後片付けをしていた。接客は丁寧だが、注文内容を間違え自信無さげな振る舞いをする店主あこは若干の不安を覚えたが、出てきた料理味は絶品だった。驚くあこを横目に急に自信あり表情に変わった店主の様子に、食事をしながらも彼女のことが気になりだす。声をかけ、彼女をまじまじと見つめ、目にかかっている髪型を整えてみるようにアドバイスをした少しの変化だったが視界が広がり、あこと目が合った店主の表情一層明るくなった。あこは店主にお礼を言われ会計を済ませて店を出

 

と思い出し、携帯電話を見るが、相変わらず千世子からの連絡はない。

しかしあこは、自分が店入る前とは違う気持ちになっていることに気づいた。

頭の中に、昔の思い出が一気に蘇ってきた。

 

あこは、小さい頃から可愛いものやオシャレが大好きな子だった。毎日ファッション雑誌を読みあさり、クラスの子からも髪型や着こなしのアドバイスを求められていた彼女が、モデルになることを夢見るのはとても自然なことだった。成長し、オーディションを受け続ける日々。会場にいるライバルはみんな自信に満ち溢れ輝いていて、あこはその場にいるだけでも刺激を受けていた。手応えを感じるものもあったが、事務所からかかってくる電話から伝えられるのは、いつも「不合格」の通知。それでも、次こそは、次こそは、と自分を奮い立たせて挑み続け

ある日のとあるオーディション会場の控え室。ライバルたちが鏡の中の自分を凝視している中、あこは隅っこ自信が無さそうに立っている1人の女性に気づく。気になったあこは、彼女に話しかけ、洋服や髪型を褒めてみたり、緊張がほぐれるようなアドバイスをしたりした。彼女笑顔を見て、自分自身も一層気合が入るのを感じた。オーディションを終え結果を待つ中審査員が読み上げた名前は控室で話しかけた彼女の名前だった。あこは、審査員たちと話す彼女の背中を見て、今まで結果を聞いたときとは違う、不思議な感覚を味わっていた。帰り道、無意識に手を動かし、次のオーディション情報を調べるあこ。しかし、その手を止めてしまう。

そのとき、耳元で低い声がする。

「ようこそ、お客様」

 

振り返ると、不思議な雰囲気を漂わせる3人が立っていた。

 

「お客様は何かをお求めのようだ。

私たちが何でも、ご用意いたしますよ」

 

物心ついてから、あこは自分がモデルになる以外の将来を描いたことはなかった。雑誌の中の世界は自分の一部であり、自分が求めるものと言えば、その道しかない。あこは、フラッシュと賞賛を浴びながら、自信に満ちた笑顔で立つ自分の姿を思い浮かべる。3人も、そんな彼女をうっとりと見つめる。しかし、あこの頭の中にふっと、自信が無さそうに立っている女の子の姿が浮かぶ。あこは、その子の身なりを整え、緊張が解けるように明るく振る舞い、輝くフラッシュの中に送り出した。その背中を見つめ、声を漏らす

自分が1番輝けるものが欲しい。

 

「はい、承知いたしました」

男はピンク色携帯電話を差し出した。

 

翌日、あこはオーディションに向かうために家を出る。しかしいつの間にか通い慣れた道の途中で、ふと空を見上げ足を止める。会場までの地図をシャっと握りしめると、今まで持ち続けていた気持ちが吹っ切れ、一気に心が軽くなるのを感じた。息を吐いてから、家に戻ろうと道を引き返したとき、後ろから「落としましたよ」と女性に声をかけられた振り返ると着信音が鳴っているピンクに輝く携帯電話を渡されたお礼を言うために顔を上げその女性を見たとき、あこの胸一気に高まった。彼女の、飾りっけがないが透き通った肌と控えめだけど意志の強い瞳の先に、大量のフラッシュと笑顔に包まれた世界が見えた。あこは、着信音が鳴り響く中、手の中の地図を広げて彼女に差し出す。

 

それから2人は、二人三脚でその世界を駆け抜けた。千世子自身の魅力や努力はもちろんだが、あこのサポートや営業力がなければモデル千世子は存在しなかった。

 

 

「満喜子」当時のことを思い出していたあこは、バッグの中で携帯電話の着信が鳴り続けていたことに気づき、急いで電話に出る。久しぶりに聞く彼女の第一声は話があるから今すぐ来て欲しい。」あこは、彼女の元に駆けつけ

あこは、千世子から、「周りから求められているものに応えるには」、「今の自分が1番輝くにはどうしたらいいかを1人、考えていたことを打ち明けられる。あこは、そんな千世子のストイックな目を見つめ、彼女自身が見つけ出した答えを聞いたとき、弱気になっていた自分を省みて、彼女を今以上に輝かせなければと強く思った。

翌月、KUMIが起用されたCMの新シリーズが放送され。商品の魅力が更に引き出され、売上は更に上昇した。

そして同時に、EIGHTORY新商品であるアルコール飲料のCMも始まった。出演しているモデルは、これまでと違うたな魅力を発揮し

ファンの年齢層を広げ、女性だけでなく男性からの人気も集めた。彼女は、今まで以上に周囲から賞賛の声や羨望の眼差し、そして大量のフラッシュを浴びる。

しかし、その目に映っているのは

 

『自分を輝かせてくれる、彼女の笑顔だった。 ―――』

 





チョコレートの箱

 

――― 小料理屋「満喜子」は今宵も賑わっていた。

 

店名は、店主の名前から自身がつけた。店内は、椅子が6席並ぶカウンターのみ小さな店だった。元々立地それほどよくないこともあり、開店当初は客も少なく、経営を続けていけるか心配していたが、徐々に常連客が増え、今ではが毎晩埋もれる程の人気店になった。店が出す料理は決して特別なものではなく、普通の食卓で並ぶような家庭料理だった。おふくろの味、というほどの古風さがあるわけでもなく、むしろ、ささやかな日常を思い出させてくれるような、さりげなさが魅力だった。そのため、訪れる年齢層も様々で、1組の若いカップルも店の常連になった。お客が気兼ねなくくつろいでいる姿を見るが満喜子の幸せだったが、人目をはばからず見つめ合う2人を見ていると、満喜子特別温かい気持ちになれた。

閉店時間が近づき、徐々に客が減っていく。最後の客が帰り、1人店内に残る満喜子。彼女は仕事には慣れた毎晩迎えるこの一瞬だけは、いつまでも苦手だった。

満喜子は、一般的な家庭に生まれ、一般的な教養を受けて育った。両親から「目の前の喜びに、きちんと満足できる人になるように」と付けられた名前通り、幼い頃から控えめで、わがままを言わない穏やかな子どもだった。学生時代は、家から近い公立の学校に進学し、校則を守り、限られた友達を大切にし、自分が話すよりも話を聞く方が好きな子だった。卒業後は中小企業に就職し、冒険や賭け事はせず日々に変化を求めず、派手でも地味でもな清潔で着心地のいい服を好む女性になった毎日繰り返される、安全な日々に、彼女には何の不満もなかった。

その日も、寄り道などせずに家に帰ろうとしていると、突然目の前に自信に満ち溢れた笑みを浮かべてこちらを見つめる若い男が現れた

「ようこそ、お客様。」

 

満喜子は目を合わさず、足早にその場を立ち去ろうとしたが、軽やかに身をこなす男に道を塞がれてしまう。

 

「当店は、お客様のお望みのものを何でもご用意いたします。

 お若いあなたなら煌びやかなドレスなんていかがでしょう。

 それとも、大きな宝石がよろしいですか?

思いを寄せる男性からの愛だって簡単に手に入りますよ?

 さあ、なんでもお申し付けください。」

 

満喜子は恐怖に身を固め、首を横に振ったが、男は諦めず「何かないのか」とせがんでくる。しかし、今まで欲しいものも目標も持たずに生きてきた彼女の頭には、欲しいものなど何も浮かばなかった。その様子に男は不満を持ったようだったが、すぐに元の笑顔に戻りパチンと指を鳴らした。

次の瞬間彼は、彼女の目の前に美しく装飾された緑色の箱を差し出した。自分の人生とは無縁だった華やかな輝きを放つその箱に、満喜子は一目で心を奪われた躊躇いながらもそれを受け取り、まじまじと箱を眺め彼女を、男は大きく頷きながら満足気に見つめていた。しかし、彼女はなかなか箱を開けようとしない。男はしびれを切らし、代わりに開けてあげようとリボンに手をかける。満喜子は、目の前の完璧な美しさが歪んでしまうことを拒んでその男の手を払い、リボンをきつく結び直した。そして再び箱をうっとりと眺め始めた。男は眉をひそめながらもしばらく一緒に箱を見ていたが、箱の前でじっと動かない彼女の様子に、すぐに飽きてしまった

 

「これは、もうお客様のモノ

 どうぞ、お好きなようにお使いください。」

 

男は彼女の耳元でそう言い残し、その場からするりと立ち去っていった。

 

翌日も変わり映えのない満喜子1日が始まったが、その中に「箱の中身を想像する」楽しみが加わった。嫌なことがあっても、1人で過ごす夜でも、箱の中身を想像すれば心は満たされたいくら考えても本当の答えはからないもどかしさに、何度もいっそ開けてしまおうかリボンに手をかけたことあった。しかし答えを知るよりも開けるまでの時間の方が、満喜子には価値があったのだ

 

しばらくして、彼女に初めての恋人がで。大恋愛とまではいかなかった不慣れな彼女をリードしてくれる彼は頼りがいがあり、満喜子の心は四六時中彼でいっぱいになった。大きな喧嘩をすることはなく、穏やかな3年間の交際を経た後、彼からのプロポーズを受けて2人は結婚した。

新婚生活は、彼女の人生で味わったことのない喜びを与えてくれた。大きな家も豪華なプレゼントも甘い言葉もいらなかった。誰かのために家を整え、料理を作り、その人の帰りを待つことは、彼女の生きがいとなった。彼女は、新しい料理に挑戦するよりも夫が好きだと言ってくれた料理を定番とした。飾りっけはないけど、落ち着く匂いが漂う、ダイニングテーブルで向き合って食べる食事、空になった皿と愛しい人の笑顔これ以上望むものは何一つなく、彼女は毎晩「の毎日が一生続けばいい本気で願って眠りについた

ある時からとの会話は徐々に減り夫は帰宅時間が遅くなり、満喜子が作った料理を食べなくなった。それでも満喜子は、いつも同じ笑顔で夫を迎えた。夫に問いただそうとしたこともあったが、それを聞いたら、何かが壊れてしまうのをどこかで解っていた。真実を知るよりも、この毎日を守ることを選んだ。満喜子は充分に幸せだった。

しかしある夜、夫が脱いだジャケットをしまおうと持ち上げたとき、ふっと、普段自分が使わないような強い香水と、我が家には並ばない料理の匂いが鼻についた。それは、複雑で魅力的な外の香りであり、底知れないほどの欲を掻き立てるような香りだった。満喜子は思わず目を閉じると、自分が知らない、というよりも、知ろうとしなかった世界が見えたように感じた

目を開けた彼女は静かにジャケットを置き、迷いのない足取りでダイニングに向かった。そして、見なくても絵にかける程眺め尽くした美しいそれを手に取り、ぞんざいに開けた。

中には、

見慣れたお菓子が、仕切りにそれぞれきちんと収まり、整然と並んでいた

満喜子は1つ手に取り、口に放り込む。甘ったるいそれは、何てことのない食べ慣れた味で、その塊は溶け切るまでの時間は、彼女を慰めるようでもあり、嘲笑っているかのようでもあった。

数日後、テレビでは、アルコール飲料の華やかなCMの後、

雰囲気を一変させるニュースキャスターの静かな声が流れた

 

「続いてのニュースです。昨夜ライムホテルのルームサービスに毒物が混入された事件ですが、宿泊客の男女が病院に運ばれましたが、まもなく死亡が確認されました。調べによると、ホテルが提供したメニューには含まれていない食材に毒物が仕込まれていた可能性があるとのことです。警察は引き続き捜査を。また、ホテル側の責任については・・・・」

満喜子は、箱から最後の1つを取ってゆっくり味わい、

 

1人のダイニングテーブルから席を立った。―――





 ℃ scope

 

私は、柚本色葉と言います田舎生まれのは、昔から好奇心旺盛で空想が好きな子どもでした町には何もないからこそ、まだ見ぬ世界に自分の世界を創作し、没頭することができました。見るもの全てが色鮮やかに輝いて見える幸福な日々で、どんどんアイディアが湧いてきました。その頃から、学校のノートに見よう見まねで自作の物語を書くようになりました。それは、誰にも見せたことはありませんでした。あくまで、遊びで、趣味だったんです。でも、たまたま見つけた小説のコンテストに、自分のお気に入りの作品を応募してみたら、そしたら、新人賞もらってしまったんです。とても驚きました。応募したときは、記念のつもりだったけど、私はすぐに次の作品を書きたくなりました。そして、もっともっと色んな世界をみたいと思うようになったんです。

卒業後、私は上京しました。見たことのない人の数、溢れる情報、広い世界。私に知り合いはいませんでしたが、賞の評判のおかげで、出版社の方から、小さい仕事や次のコンテストの情報なんかを頂けていました。しかし、自分が書きたいものに取り組むことになかなか時間が割けず、周りの評価を気にするようになり、思い通りにいかない日々を過ごしていました。そして、店頭に並ぶ本はどれも面白く、私は気を抜くと似たような作品を書いてしまいそうになっていました

頭の中にはいつだって書きたいもので溢れていたのに、いつしかそこは空っぽになりました。そして、目の前で次々に生まれる新しいものに嫉妬し、心は押し潰されそうでした。それからだんだんと世界が灰色に見え始め、私の中で、情熱が消えていくのを感じていました。少なからず、自分には、何か、人とは違う才能があるのではないかと信じていたんだと思います。

 

もうやめてしまおう。世の中には充分面白いものがある。それを書くのは、自分じゃなくていい。

本当にそう思っていました。

 

そのとき、あの3人に出会ったんです。彼らは、私に欲しいものを尋ねてきました。私が戸惑っていると、彼らは小説家として地位と名誉はどうかと言いました。その時に気づいたんです。私は、賞や完成品ではなく、尽きることのない情熱が欲しいのだと私は彼らにそれを願いました。3人は不思議な顔しながらも頷き、私にそれを差し出しました

 

彼らから渡されたモノを覗きこむと、灰色の街の中で1人だけ、青色に色づく男性が見えました。は、ツイてない人生を送ってきながらも、時間をかけてそんな自分を愛せるようになった男でした。彼の暮らしや彼が持っている価値観は、私とはまるで違うものでした。

次に見つけたのは、ピンクに色付く女性でした。彼女は、自分の天職に出会い、その道を邁進する女性でした。彼女が大事にしているそれもまた、私とは違うものでした。

そして、次に見つけた緑に色付く女性は、自分の幸せは自分で切り拓いていくのだと気づき、過去を手放して小さな店を営んでいる人でした。

あの3人からもらったモノは、人間が1回の人生じゃ見切れないものを、何でも見せてくれました。私は、それを通して世界を見ながら、空っぽだった頭が満たされ、昔のように心が高鳴るのを感じていました。そして、一気にこの作品を書き上げたんです世間から充分な評価を受け、街を歩けば声をかけてくれる人も増えました。多くの人が私の作品を読んで楽しんでくれている、それはとても幸せなことです。

 

でも満足か、と聞かれると、正直よくわかりません。

あの3人からもらったコレは、何でも見せてくれるけど、

自分何のために書くのか

それだけは、見えないんです。

 

FIN.